偏差値で学校間を格付けする社会風潮を考えてみる

 最近のSNSでは大学間や高校間の偏差値を使って、その入試の難しさや学校のレベルの違いを評価するような情報が拡散され蔓延している。例えば、どこどこの大学のレベルは71だから入学が難しい、55で低いから入りやすいというように、偏差値を使ってどこの大学が難しいか易しいかの情報が流されている。

 少し考えれば当然のことだが、それぞれの大学には内容の違いがある筈で、入りたい学生の希望によって、良い大学になったりそうでないと思われる大学になったりする筈である。こうした偏差値を使った入試に関する情報の発信元は、予備校やそのSNS情報を発信して商売している人たちや関連企業によるものが多いようだ。しかもこれらのSNSに流される情報の多さや頻度は尋常でなく、視ている高校生や一般人や多くの保護者たちは当然のことのように、こうした情報に左右されて、行動選択するように刷り込まれていく過程が予想できる。その点を考えただけでも危惧感を感じざるを得ないのである。

 これらの予備校やSNSで商売している人たちは、受験生に重要な入試情報を提供していると信じ込んでいる節がある。これら情報の元である「偏差値」の誤った情報を提供し、受験生の入試行動に影響を与え、誤った判断に導いてしまっていることを果たして認識しているのだろうか。

 この流布されている偏差値情報は、単なる入試における入り易さについての指標に過ぎず、大学に入ってから学んで行く過程や、学んだ内容に対する大学の評価では全くないのである。例えば、東京都内の私立大学に対する評価は、その就職率が高いかどうかが入試受験者の多少に影響しているとも言われている。こうした考え方は、明治以降の学歴がその人の評価そのものだという歴史的な価値観が未だに継続されていることの一端を示している。これまでも学歴主義の不適切さが頻繁に取りざたされているにも関わらず、それに代わる「偏差値」という学歴主義的思想が、現代社会の中で、これまで以上に蔓延しているのでないかと考えてしまうのである。

 ところで「偏差値」はある集団内のバラツキの程度を示している。そのもとは「標準偏差」であり、「偏差値」は「標準偏差」を50を中心にするように変更されたものである。そのある集団とは一体何かということが次の問題になる。

その「偏差値」の数値を導き出す集団はいつでも同じではない。それぞれの集団が違えば、数値が同じでも同じ学力ではないのである。

 毎年一月に行われる大学入学共通テスト(昔は共通テスト)では数学、英語、社会、理科、国語などの科目が課されている。各教科はまた下位の科目に分かれている。これらの科目のうち、何万人もの受験生がそれぞれ科目を選択し受験するのである。その科目の受験者の結果について、数週間後に平均点などの報告がインターネットや新聞で公表される。ところが各科目の平均点の違いが大きい時には、修正が行われることがある。

 私自身も各科目の偏差値が同じなら、集団内の相対的な位置は同じなのだから、各科目の偏差値に該当する数値を同じ点数とすれば平等だと考えていたことがあった。でも考えてみると、その集団の学力が全体として高い集団と、高くない集団での偏差値を同等と見做すことはできないと考えるようになった。それぞれの科目の受験生の学力の質が同じだと考える保証は全くないからである。同じ偏差値だからといって、その学力が高いとか低いとかと一概には言えないことになる。このことがあってか、大学入試センターから出される平均点の結果には、偏差値の報告はない筈である。

 因みに、大学入学共通テストでそれぞれの科目を受験した学生で、平均点が高い科目と、低い科目が生じる場合がある。受験生がとった各科目の点数は、単純に加算されて総合点として2次試験に扱われるので、試験科目の内容が難しかった場合と、易しかった場合で損得が生じることが起こり得る。そこでその差が大きい時には得点の調整が行われている。

 因みに「大学入学共通テストの科目間の調整する条件」には、「得点調整する条件として、●20点以上の平均点差が生じていること ●その平均点差が試験問題の難易差に基づくものであること ●受験者数が1万人以上の科目であること」と記されている。

 その修正の仕方については、「共通テスト 得点調整とは 得点調整の対象・方法・条件・仕組み・頻度」(大学受験予備校四谷学院の「受験コンサルタントチーム」)には「得点調整は、『分位点差縮小法』という方式を用いて行われます。対象となる受験者と対象とならない受験者間での公平性の観点から、調整後も通常起こり得る平均点の変動範囲となるように調整が行われます。単純に平均点差の全てを調整するものではありません。

 得点調整の対象となる科目のうち、最も平均点の高い科目と最も平均値の低い科目の得点の累積分布を比較し、図の縦軸の受験者数の累積割合(%)が等しい点(等分位点)の差(分位点差)を、一定の比率で縮小する方式です。」と記されている。

 この科目間の平均得点の調整は、その集団が正規分布していることを前提に、低得点の科目の積算分布の割合を、高得点の科目の積算分布に近づけようとする作業だと思われる。つまり正規分布といっても、その形がなだらかなものとそうでないものがある。それを示すのが尖度(せんど)である。累積分布の累積割合を、きっと標準的な正規分布に変換する作業ではないかと思われる。実際には、平均得点が高い科目はそのままにして、低得点の科目を高い方の得点に近づける作業なのではないかと推測している。

 この平均得点の科目間の調整は、集団そのものの学力差の違いを反映しているものではなく、単なる試験問題の難易差を調整するため一手続きに過ぎないと記されている。でもそうなら、偏差値で代用できる筈で、そこにこの手続きの正当性への矛盾を感じてしまうのである。

 これらから偏差値が同じ値でも、受験者集団の学力の質によって、それを数値だけで比較することには何の意味もないことがわかる。どうも社会では、数値にすれば客観性が保たれると考える風潮があるようなのである。

 そこで客観性について考えてみよう。数学と英語の得点で、数学が80点、国語が90点のAさんと、数学が90点、国語が80点のBさんの合計がともに170点だとしても、同じ学力を示していると考えて良いのだろうか。私たちの社会ではそれを同じ学力として扱っている。数値が同じなら同じ学力だと考えているのだ。数値の背景にある学力について考えることをしないで、数値だけの同等性を問題にしているに過ぎない。

 SNSを見ていると、国立大学の偏差値と私立大学の偏差値を並べて、入学試験の難易度を示しているものが殆どである。それらは大学予備校からの情報が多いようである。でも国立大学は5科目以上の入試科目を受験しなければならないが、私立大学は3科目のところが多い。そこで既に受験者の母集団が違っている。偏差値を生み出す5科目と3科目の受験科目による受験者集団の質はもともと異なっている。それを同じ数値だとして比較することは全く意味がないことなのである。

 また国立大学でも私立大学でも、偏差値を判定するそれぞれ母集団はどこからのものなのだろうか。A国立大学の偏差値を考えても、そのA国立大学の受験希望者の模擬テストによる判定によるものだろうか。それとも国立大学全体の受験希望者を母集団にしているのだろうか。その合格ラインの予想の決定は、模擬テストで定員に対する何割以内かということで決まるのだろうか。

 私立大学でも同じである。3科目による入学可能性をどう決めているのかはよく分からないのだ。つまり母集団がどのようなものなのか、その合格可能性を示す偏差値はどのように決められるのかはっきりしない明示されていないのである。

 SNSである地方の旧帝大の学生に、他にどこの大学を受験したかを尋ねる企画をやっていた。すると、学生の中に東京のある中堅の私立大学を受験して落ちたという学生たちがいた。するとそんなところも落ちたのかと笑っていた。私立大学の3科目受験と国立大学の5科目受験では、母集団は異なり、私立大学の受験科目には細かい知識を要求する課題も多いに違いない。そんなことから広い知識を要求する国立大学と、狭い範囲を詳しく要求する私立大学では、それぞれの困難さが異なることは明白である。

 入学試験は大学の入り口の問題であり、入学後、何を学んでどんな学力を身に着けていくかが一番大事なことではなかろうか。人生は長く、常に学び続けるのがヒトというサルの宿命である。単に就職率が良いからといって、その大学を受験する風潮、そして歪んだ偏差値偏重の社会風潮をなんとかしないと、日本の将来は危ういと考えてしまうのは、私だけであろうか。そんなことを偏差値について考えてしまったのだった。

  

 写真は水浴びするゴイサギたち

 

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