高学歴を笠に着たり、東京中心主義の人がいるのは本当だった!
これまで人を学歴や東京が一番優れているという感覚で、低学歴や地方の人を差別的に見る人がいるのは、漫画やドラマの世界だけだと思っていました。
両親の出身地は東京で、その後名古屋に転勤になり、そこで私は育ちました。母方の叔父と話していると、電車が数分おきに駅に入ってくるのが当たり前だと話していました。彼が東北に旅行で来た時、1時間に1本か、2時間に1本の電車しかないとか、事故で電車が停まった時、その状況を説明するアナウンスがないことに苛立つと話していました。東北の人たちは、アナウンスがなくても静かに電車が発車するのを待っているのです。
昔職場で山形県内の図書館の集まりがあった時、公立図書館の司書の人が、入ってきた東京のW大卒業の新人のプライドが高くて辟易していると話していたというのです。その若者は雑用や言われた仕事をすることを拒否し、自分のような高学歴の人間がする仕事ではないと話していたそうです。
ある組織内の仕事は誰かがやらなくてはならず、そうした仕事があってこそ組織が動いていくのです。これは社会でも同じで、町内会のゴミ収集車が来て、ゴミを運んでくれる人がいるから、そのお陰で社会が動いていることと同じです。社会の中の役割分担に過ぎない筈です。住民の中には、ごみを収集して貰っているにも拘わらず、こうした作業をする人たちを3Kの仕事だと蔑む人もいるようです。でもこうした態度や行動をする人をこれまで直接見かけたことはありませんでした。
その後にこうしたことを経験したのです。ある年に東北地方の幼稚園研修大会があり、山形県が担当県になりました。私は酒田の幼稚園の保育発表のための事前の指導のために何回か通いました。そこで具体的な保育指導をしていたのです。
発表当日になって、東京のある教育系大学の教授がやってきました。その態度はとても横柄で、園関係者に対しても上から目線で接していました。彼もW大卒業で、その後北海道教育大のある分校を経て、東京の教育系大学に勤めるようになった人でした。W大卒業が大きな自信になっているような口ぶりでした。
その後、保育実践発表の後に、保育についての講演をしましたが、その話の内容はありきたりのもので、実際に保育現場に沿うような話ではありませんでした。
高学歴を鼻にかけたり首都圏中心主義で、地方を馬鹿にする人が実際にいると思っていなかったので、とても吃驚したことを覚えています。教育系大学に奉職している人間が、そうした学歴や東京中心主義の教育を若い人たちにしているとしたら、社会にとって有害ではないかと思われてなりません。
どこの大学に入るかは、その時の高校卒業時の偏差値に過ぎません。その後何を学んだかに無関係に、卒業後その肩書で社会を生きていく人たちがいることに驚いてしまうのです。大学で何かを学んだとしたら、その知性の高さによって、文化の相対性や人の尊厳に対する敬意なども身に着けている筈だと思うのですが、そうしたことを持っていない人がいるようなのです。とても驚きます。
当然のことながら、W大を出た人全てがそんな学歴主義で、東京中心主義ではないと思います。人間として立派な知性を持った人たちも多くいることは間違いないでしょう。私が見たり聞いたりした人が、偶然W大卒業だったに違いありません。 でも、こんな漫画やドラマの中に出てくるような破廉恥な人たちが、実際に存在していることに驚くとともに、日本の教育の世界の在り方について考えてしまったものです
(写真は長良川土手から揖斐川に渡る「福原の渡し跡」)